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大谷亨_『点石斎画報』に描かれた無常鬼たち
  发布时间: 2017-08-31   信息员:   浏览次数: 1073

『点石斎画報』に描かれた無常鬼たち

――白無常と黒無常の非二元性に着目して――

大 谷  亨

要旨

中華圏では無常鬼という名の勾魂使者の存在が広く知られている。一般に白無常と黒無常がいるとされ、両者はペアの形態で表象される。これを二元性の対応関係と説く論者も少なくない。しかし、この「無常鬼二元説」とも呼ぶべき学説は、必ずしも歴史的事例を包括し得るものではない、と筆者は考える。小論はこのことを論証すべく、清末の画報より関連記事を蒐集し、その無常鬼表象を調査した。結果、上記学説に該当する事例が過半数を下回ること、白無常が単体となる事例が多数を占めること、黒無常が単体となる事例が皆無であること、即ち、無常鬼の非二元性、或いは白無常の優位性が明らかとなった。

【キーワード:無常鬼 / 黒白無常 / 牛頭馬面 / 点石斎画報』 / 呉友如画宝』】

  

はじめに

 死者の魂を冥府へと拘引する勾魂使者が、およそ六朝志怪小説以来、中国の歴代怪異譚(特に入冥譚)には、しばしば登場する。澤田瑞穂氏は、その特徴を以下のようにまとめる。

役人の服装をした使者が訪れる。一人というのも二人というのもあり、また数人の従卒をつれて騎馬できたというのもある。使者は黄衣・黄衫を着ていたというのが多い。

 氏の指摘するとおり、勾魂使者の姿は役人風である場合が多く、その形象には一定の類型を見出すことができる。しかし勾魂という職能は、あくまで名もなき下級獄卒たちが(泰山府君や城隍神などパンテオン上位の神々の下命に従い)適宜勤めたのであって、勾魂を司る特定の存在が想定されていたわけではない。勾魂使者の人数、或いは服の色が時々で異なるのはそれ故である(後に確認する図4のように、「役人風」から大きく外れる場合すらあった)。つまり勾魂使者の形象は、一定の類型を形成しつつも、勾魂使者としての自己同一性を担保するには甚だ頼りない要素に過ぎなかった、と言える。ところが後世、この有象無象たる表象から一転、固有の名称と形象とをたずさえた、全く新しい勾魂使者が生じることとなる。それが、無常(むじよう)()である。

 図123には、蓬髪に、烏帽子のような山高帽を頂き(帽子の上には「一見生財」「天下太平」などの文字が確認できる)、時に口から長い舌を垂らした、白装束と黒装束の人物が見える。いずれも、連環画(中国独自の漫画形式)やTVドラマに確認される、現代中国における無常鬼の表象である(一般に白装束の方を「白無常」、黒装束の方を「黒無常」と呼び、併称する場合は「黒白無常」と呼ぶ)。いくつかの特徴的なパーツで構成されるその造形は固定化され、作品ごとの差異をほとんど感じさせぬものとなっている。

 では、この新たな勾魂使者像は、いかなる時期に発生したものなのか。相田洋氏はそれを「南宋頃」とした。しかし、その妥当性はいまいちど検証される必要がある。

例えば、「無常」という語句が勾魂使者の名称として使用された早期の用例のひとつに、『古今小説』巻三十一「鬧陰司司馬貌断獄」の閻君得旨,便差無常小鬼,將重湘勾到地府(閻魔はその旨を受け、無常小鬼をつかわし、重湘を地獄に連行させた)がある。ここに記された「無常小鬼」なる勾魂使者の形象は、その挿絵(図4)に見えるとおり、小さな角を生やした諸肌脱ぎの小鬼(こおに)たち(計3体)であり、いわゆる無常鬼のそれとは大きく異なっているのである。ちなみに、上掲図3はドラマ版『西遊記』の無常鬼表象であるが、少なくとも明刊本『西遊記』に無常鬼の名はなく、あるのは「勾死人」と呼ばれる勾魂使者である。清初の挿絵に描かれたその形象を見ると、やはり今日言うところの無常鬼ではないのであった(図5)。

管見の限りでは、明代後期~清初においてさえ(今日通用する)無常鬼の形象は定着しておらず、「南宋頃」にそれが生じたと考えるのは困難である。馬書田氏は、無常鬼の名が俄に多くなるのは清代筆記小説であると指摘するが、筆者は少なくともあの山高帽の無常鬼の歴史は18世紀後半を遡れないものと認識してい

 ところで、無常鬼と同様、冥府のパンテオンに中途参入した獄卒として牛頭馬頭(中国では一般に「牛頭馬面」と呼称する)がいる。無常鬼の傍らにしばしば目撃される彼らだが(例えば、図1に牛頭馬頭の後頭部・側頭部が見える)、その参入時期は無常鬼に比べて遙かに古かったようだ。佐藤道子氏は、牛頭馬頭が獄卒として定着する過程を、各種仏教経典、及び敦煌変文(所収の目連救母説話)の対照作業によって考証し、インド由来とされてきた牛頭馬頭が中国で形成されたこと、牛頭の形象が馬頭に先んじて形成されたこと、8世紀頃に両者がペアの形態として定着すること、等々を指摘した。

 では一方の無常鬼は、いかなる背景より形成され、どのような変遷をへて今日の形となったのか。中華圏においてはあまりに有名な無常鬼だが(或いはそれ故か)、かかる「無常鬼の歴史」は十分に顧みられてこなかったようである。このことは、例えば以下のような言説に顕著に表れている、と筆者は考える(〔〕内の記述は筆者による補足、以下同じ)。「無常鬼は、一人は白無常、もう一人は黒無常と呼ばれている」、「無常鬼の姿にはいくつかの特徴がある。(中略)二体があり、一体は白で、一体は黒である」「〔白無常は〕一般的に黒無常と併称する」「白無常、黒無常は民間で信仰される〔牛頭馬面とは〕別の二体の鬼卒である」等々

 無常鬼に白無常と黒無常の2種類があること、白無常と黒無常はペアであること、これらの示唆・指摘は、無常鬼関連の言説においては常套句となっており、両者の関係を二元性の対応関係と解釈する論者も少なくない(その際にしばしば使用される挿図として図6がある)。 


確かに、現代中国における無常鬼の表象は、(図13にも表れているとおり)往々にして白無常・黒無常がペアとなり、どちらか一方が単体で存在する事例はあまり一般的ではないようだ

しかし、「無常鬼二元説」(白無常と黒無常の関係性を二元性の対応関係と見なしたうえで、両者がペアとなった状態を無常鬼の基本形態とする学説)を、先行研究の多くが参照する清代刊行の諸資料(に示されている無常鬼表象)と照合した場合、両者は必ずしも符合しないように思われる(過去への眼差しによって相対化されるべき今日の〈常識〉が、むしろその眼差しの在り方を規定してしまっている、とでも言おうか)。このことから筆者は、「無常鬼二元説」が支配的な現状には、無常鬼研究が抱える〈歴史〉への盲目が象徴的に表れている、とさえ考えるのである。

そこで小論では、「無常鬼の歴史」構築への足がかりとして、「無常鬼二元説」への批判的考察を試みたい。議論の根拠となるのは、無常鬼に関する豊富な記述、ならびに図像を提供してくれる清末刊行の絵入り新聞『点石斎画報』(及び『呉友如画宝』)である(絵と文から成り立つ画報の資料的特性は、無常鬼の形象を考察するうえで殊の外役立つものである)。当該誌より確認された計22件の無常鬼関連記事を「祭祀」「強盗」「怪談」の3項目に(便宜上)分類し、(果たして無常鬼は常に二元的で、ペアの形態なのか)その出現形態を調査していく。

1. 祭祀

 「祭祀」項(計10件)の分類基準は、祠廟に祭られた無常鬼(の塑像)、或いは迎神賽会で行進する無常鬼(の仮装)が記事に確認されること、である。

本項に分類される記事の大半は、文章部分に無常鬼の名は表れず、絵(の片隅)にのみ、その姿が確認できるものである。それらは往々にして「白無常と黒無常がペアとなる形態」(以下、[○●]と表す)を示している。しかし2例、タイトル及び本文に無常鬼の名が表れる記事があり、まさにその2例には、「白無常が単体となる形態」(以下、[○]と表す)が確認される。まずは前者の[○●]を示す事例から見ていきたい。

 例えば、「神豈導淫(神がどうして淫行を導くだろうか)」(図7)という記事がある。穗垣城隍廟(「穗垣」は広州の別称)の十王殿を描いたという絵の片隅に、傘を手にした白無常と、その隣で諸手を挙げた黒無常の塑像が確認できる。他に[○●]が確認される記事としては、「鬼染嗜好(幽鬼が阿片に手を染める)」(図8)、「火焼地獄(焦熱地獄)」(図9があり、各種迎神賽会を報じたものとしては、「盂蘭誌盛(盂蘭盆の盛況)」10、「鬼会(幽鬼の仮装行列)」(図11)、「放蓮花灯(蓮花灯を河に流す)」(図12)等がある(やはり黒無常の諸手を挙げたポーズが散見される。黒無常を溺死者の幽鬼

と説く俗説を仄聞するが、なにか関係があるのかもしれない)。


本節冒頭で予告した通り、これら[○●]を示す記事の他に、[○]を示す記事が2例見つかる。そのひとつが、「信奉無常(無常鬼を信奉)」(図13)である。記事本文によれば、当時、北京の興隆街に位置する弥勒庵付近に無常鬼が出没するとの噂がたったという。そこで、ある人物が無常鬼を鎮めるために土地祠を建て、また別の人物がその祭壇に無常鬼の塑像をつくったところ、以下のようなことが起きたという(抜粋)。


土地祠の祭壇の下に無常鬼の塑像をつくり、朔望〔陰暦の1日と15日〕に焼香し無常鬼を拝んでいたが、〔その塑像は〕ついには無闇に人々を威服するようになり、霊験あらたかとなった。〔他人の〕災難や〔自身の〕幸福を求める者が押しかけ、門を閉じても穴を開けようとするほどの勢いである。線香の灰を少量取り、奇麗な水に混ぜて飲むと、病が治ると言われていた。落ちぶれて、人生がうまくいかない者は、無常鬼の像に祈ると、罪障を滅し幸福が得られると言われていた。於土地祠供桌下装塑無常鬼像,朔望日焚香膜拜鬼,遂大肆威福,丕著靈應。求灾問福者,戸限幾為之穿,取香灰少許,調以浄水飲之,謂可愈病。生涯潦倒,路鬼揶揄者,祈之,謂可滅罪資福

弥勒庵付近に出没したという無常鬼の姿について詳細は不明だが、土地祠の祭壇につくられた霊験あらたかというその塑像は、絵を見る限り[○]である。本記事のタイトル及び本文では、「無常」或いは「無象鬼」という語句が使用され、「白無常」と特に限定されていないことから、少なくともここでは「無常鬼=[○]」の図式が成立していると言える。


[○]が描かれたもうひとつの事例は、「無常賽会(無常鬼のお祭り)」(図14という記事である(抜粋)。

温州は瑞安県の某廟に無常鬼が祭られており、霊験あらたかと伝わっていた。人が病を患い、平癒の願かけをすると、たちどころに応じるため、参拝客で大いに賑わった。毎年3月のみそぎの日になると、この土地の人々は迎神の祭りをひらき、一年の平安をお祈りする。今年の33日、朗らかとした天気のなか、平癒のお礼参りに来た多くの者たちが、みな無常鬼の姿に扮し、廟を詣でて焼香した。温州之瑞安縣某廟有無常鬼,相傳頗著靈異。人或患病,許愿求薬,無不立應,因是香烟鼎盛。每屆莫春脩禊之辰,里人迎賽是會,以祈四季平安。今歳上已,天晴日朗,凡病愈酬愿者,皆扮作無常模樣,詣廟燒香)

 温州の某廟にも、先ほどの記事と同様、霊験あらたかな無常鬼が祭られていたという。この某廟に無常鬼の塑像は安置されていたのか、いたとすればそれはどのような姿をしていたのか、本文に何ら記載がないため、この点について知ることはできない。しかし、その絵に目を転ずれば、無常鬼に仮装し某廟を訪れる人々の姿が確認できる。彼らは一律に白装束だ。本記事も「信奉無常」と同様、タイトル及び本文で使用されているのは「無常」「無象鬼」であり、やはり「無常鬼=[○]」の図式が成立しているのであった。

ちなみに、Henri Doréが記録した(白無常と同一の存在と思われる)「白老爺」(図15)(が口に咥えた銅銭)には、魔除けや招福の効果があるとされていたという。このように白無常が一獄卒としての性格を逸脱し、霊験あらたかなご神体として人々の信仰を集める事例は珍しくなかったようである。ただしこのことは、[○]が無常鬼表象における例外であることを、必ずしも意味するわけではないだろう。むしろ筆者は、両記事に確認された「無常鬼=[○]」の図式を重視したうえで、[○]こそが無常鬼表象の本道だったのではないか、とさえ考えるのであるが、おそらくかかる主張は、次項以降の議論にてより明白になるものと思われる。


2. 強盗

 「強盗」項(計7件)の分類基準は、無常鬼に仮装して通行人を脅かし、金品の掠奪をはたらいた強盗たち(以下、無常鬼強盗)が記事に確認されること、である(一部やや性質を異にする記事を含むが、詳細は後述)。

 かつて澤田瑞穂氏は、清代筆記小説に看取される偽幽鬼(即ち、幽鬼の姿に仮装した人)の話を蒐集し考察を加えた。その際に「その扮装ぶりが中国の幽霊や妖怪の形状を考える上には多少の参考になる」、「外国の幽霊研究には、偽幽鬼の扮装が意外と好い参考資料になるものだ」と述べた。本節の意図はまさにそれと一致するが、やや敷延しよう。

 そもそも、なぜ清末の強盗たちは無常鬼に仮装したのか(記事内容の事実性を問わない小論では、むしろ「なぜこのような記事(或いは話)が成立し得たのか」という設問が適当か)。おそらくそれは無常鬼が畏怖の対象、かつ周知の存在だったからである(一般に強盗という行為には恫喝が伴い、その対象は不特定多数に及ぶからだ)。したがって強盗たちも、自身の姿を周囲に「無常鬼」として認識してもらえるよう(即ち、怖がってもらえるよう)、共有された無常鬼像の忠実な再現に努めたに違いない(多くの記事において、その企みは成功している)。当時の人々が無常鬼の形象をどのように捉えていたのか、「その扮装ぶり」がよい参考資料となるのはそれ故である。

例えば、「生死無常(生死は常ならず)」(図16という記事がある。寧波に柴橋という市場があり、そこに出入りしていた范という商人が、ある日の帰路にて無常鬼に(その魂ではなく)所持品を掠奪されてしまった話が報じられている。無常鬼の姿については、「古い墓の隣を通ったところ、突如白衣を身に纏い、山の高い帽子を被った者が人、墓のなかから現れた(行經古塚旁,忽一白衣、高帽者,自塚中出)」と、白装束だったことが明記されてあり、このことは絵にも反映されている(描かれているのは、犯人が罰として河に沈められようとしている場面)。 


文中では「無常」「無常鬼」という語句が使用されており、ここでも「無常鬼=[○]」の図式が成立している。ちなみに、記事冒頭には、「ハツカネズミのように臆病な者は、〔無常鬼を〕実在すると信じ、まるで人の生死が全てそれに委ねられているかのようである(膽怯如鼷者,信以為真,一若人之死生胥於是乎寄)」という記述が確認できる。前項にて無常鬼は、人々の篤い信仰を集める善鬼としての一面を覗かせたが、やはり(或いは、少なくとも「臆病な者」には)畏怖の対象として認識されていたことがわかる。

以下に示したのは、それぞれ「無常行刧(無常鬼、強盗をおこなう)」(図17、「孀婦奇智(寡婦の機知)」(図18、「假鬼逐虎(偽無常鬼が虎を駆逐)」(図19)という記事である(「孀婦奇智」及び「假鬼逐虎」における無常鬼は、いずれも強盗ではないが、人を脅かすことを目的とした仮装姿であるため、本項で扱うこととした)。見ての通り、全て[○]を示している。


では、[○●]を示す無常鬼強盗の記事はというと、『申報』に一例のみが確認できる。1878722日付けの「捉獲無常(無常鬼を捕獲)」という記事である(抜粋)。

聞くところによると、慈谿県の山北で、住民たちが大騒ぎしていた。ある二人が、一人は黒無常に、一人は白無常に仮装し、共に顔に色を塗りたくり、髪を乱し、夜中に新開河の河辺で待ち伏せして、一人で歩いて来る者がいると、そこに躍り出て脅かしては持ち物を強奪していた。(訊得,慈谿縣山北,人鬨夥。二人,一扮黑無常、一扮白無常,均塗面,披髮,在新開河邊於黑夜中俟有孤客過往,卽跳舞上前恐嚇搶物)

言うまでもなく、[○●]を示すためには、強盗の数は2人以上が必要となるが、複数人による犯行ならば[○●]を示すのかといえば、そうでもなかったようだ。例えば、「舟子捉鬼(船頭が幽鬼を捉える)」(図20、「假鬼盗穀(偽幽鬼が穀物を盗む)」(図21という記事がある。

「舟子捉鬼」には全部で4体の偽幽鬼が確認できるが、そのうち無常鬼(白装束)は1体のみである。「假鬼盗穀」には全部で6体の幽鬼が確認できるが(物陰の2名は被害者)、やはり無常鬼(白装束)は1体である(図21中央に、中途半端な高さの帽子を被った、無常鬼に見えなくもない偽幽鬼が1体確認できるが、少なくとも黒無常ではないと判断した)。かかる複数人による犯行でも、無常鬼は[○●]ではなく[○]を示すのであった。

紙幅の都合上、本項に分類される記事の全てに言及することは叶わないが、それらはすべて[○]を示したのである。


3. 怪談

「怪談」項(計5件)の分類基準は、塑像や仮装姿ではなく、言うなれば本物の無常鬼が記事に確認されること、である。ただし(指摘するまでもないが)本物の無常鬼などは端から存在しないのであって、それらもやはり絵師の想像力を頼りに描かれたものに他ならない。その点で、本物でない無常鬼と殊更に区別する必要はないのだが、絵師の脳内無常鬼像が記事上によりリアルに反映される可能性は期待できるのかもしれない。

 例えば、「假鬼勾魂(偽無常鬼が魂を勾引)」(図22)、或いは「以鬼殺鬼(無常鬼で無常鬼を殺す)」(図23という記事がある。

假鬼勾魂」は、山東省のとある県役所裏の小道にて、(仲間を脅かそうと)無常鬼に仮装した小役人が、自分の仮装姿と瓜二つの本物の無常鬼に遭遇する話、が記されている。他方の「以鬼殺鬼」は、「強盗」項にも分類しうる内容であるが、浙江省海寧の朱橋にて、無常鬼に仮装した強盗(たち)が、やはり自身の仮装姿と瓜二つの本物の無常鬼に遭遇し、惨殺される話、が記されている。では、それぞれの無常鬼表象を確認していこう。

「假鬼勾魂」では、小役人が遭遇したという本物の無常鬼について、「姿形が自身〔の仮装姿〕と同様であった(状與己同)」と記されるのみで、積極的な記述は見られない。ではその小役人の仮装姿はというと、「小役人は皆を脅かそうと、髪の毛を乱し、顔に色を塗り、白い長衣を着て向かった(隸思嚇衆,乃披髮塗面,着白袍以往)」とあり、蓬髪に白装束であったことがわかる。絵には、より詳しい描写とともに、偽物(左)と本物(右)の両無常鬼が描かれている。


 「以鬼殺鬼」も同様に、強盗(たち)が遭遇したという本物の無常鬼については、「服の色や容貌が〔強盗による仮装姿と〕瓜二つ(服色面目相等)」と記されているのみである。さらに、その仮装姿についても(体軀が大きいという情報を除き)別段記述がないため、絵に確認される(惨殺後の)姿が唯一の手がかりとなる。見ての通り白装束である。両記事においても「白無常」という限定的な呼称は使用されていないため、やはり「無常鬼=[○]」の図式が確認されるということになる。

 他には、「厲鬼畏犬(悪鬼が犬を畏れる)」という記事がある(抜粋)。

その地〔菜市口〕を通過する際、身のたけ一丈余りある者に出くわした。その身なりは全身真っ白で、塑像の無常鬼に似ていたが、それよりも大きかった。經其地,見一人高丈餘,徧身皆白,類所塑無常鬼而大過之

幽鬼がでることで有名な北京菜市口に、「塑像の無常鬼のよう」な幽鬼がでたという。その幽鬼の形象としては、他に「身の丈一丈余り」であること、「全身真っ白」であること、が記されている(ちなみに、本記事の絵に反映されているのは記事後半に登場する無頭鬼であり、「(塑像の)無常鬼のような幽鬼」は描かれていない)。幽鬼は(塑像の)無常鬼に似てはいたが、(塑像より)大きかった、とあるので(記事に反映された情報から判断する限り)両者の類似性は「全身真っ白」という要素より見出されたものと判断される。本記事も「無常鬼=[○]」の関係性が表れた事例のひとつと言えよう。

本項に分類される記事には、他に冥府の様子を描いた「冥誅吞賑(冥府、横領を罰す)」や「銭虜喪膽(守銭奴、怯える)」があり、それぞれ[○●]、[○]を示すが、紙幅の

都合上詳細は割愛する。

 以上、『点石斎画報』(及び『呉友如画報』)に確認される計22件の無常鬼関連記事を3項に分類し、各項ごとにその無常鬼表象を確認した。言及できなかった記事もあるが、下掲表1において、その出現形態をめぐる全結果をまとめた(議論の公平性を配慮し、タイトルと共に、絵師の名・刊行年月日(光緒・陰暦)・報じられた出来事の発生地等々の情報を併記した)。

さしあたり全体の累計に着目したい。[○●]は過半数以下の9 件にとどまり、残りの13件を[○]が占めることとなった。再三述べている通り、およそ[○]を示す記事は「無常鬼=[○]」の図式に該当した。また、本表において[●]が一例も確認されないことにも注意したい。これらの諸条件を綜合すると、白無常は単独で存在し得たが、黒無常は白無常の存在を不可欠とする、白無常ありきの存在だった、と結論付けることができよう。

無常鬼の発生及びその後の変遷については、あくまで今後の課題となるが、表1に看取される白無常・黒無常の非二元性(或いは白無常の優位性)は、両者の生成時期の差に原因が求められるのかもしれない。まず白無常が存在し(この時点では、「白無常」ではなく「無常」「無常鬼」と呼ばれていたものと思われる)、続いて(白無常に対応する存在として)黒無常が派生した(ここにおいて漸く「白無常」「黒無常」の別が生じるのだろう)。つまり、無常鬼の原初的形態として[○]があり、その後[○●]が派生的に生じた。このような推移を(歴史的背景として)想定することで、本表において[●]が一例も確認されないこと、[○]を示す記事が悉く「無常鬼=[○]」の図式に該当したこと、が論理的に解釈されるのではないだろうか。

とまれ、本考察で獲得した「白無常の優位性」という新たな視点は、「無常鬼二元説」が支配的な状況下では、例外として論理の外側へと棄却せざるを得なかった多くの事例(小論で扱った画報記事以外にも、白無常のみが確認される清刊本『玉歴鈔伝』の無常鬼図像、或いは黒無常の姿が他地域のそれとは大きく異なる福建・台湾の無常鬼表象等々がある)に意味を与え、それぞれを有機的に結合する、新たなテーゼとして機能するものと考えられる。その妥当性の検討も含め、引き続き「無常鬼の歴史」構築に取り組んでいきたい。

むすびにかえて

無常鬼は、人々の想像力を根拠とする、実態を持たない存在である。故に、想像/創造された全ての無常鬼は、「無常鬼」として認められる権利を等しく有している。原理的に、そこに〈正誤〉の概念は適応されず、ただあるのは大衆性(ポピュラリティ)の差のみである。大衆性の高い表象は正統となり、低いものは異端となる。が、その価値は随時変動しうるものであった。小論で試みた「無常鬼二元説」への批判的考察、及びその過程より導き出された無常鬼表象の変遷をめぐる仮説は、かかる構築主義的な知見に基づいたものと言える。無常鬼表象の常ならないことは、およそ無常鬼を学究的に考察する者がまずもって共有すべきテーゼとなるのではないだろうか。


『点石斎画報』に描かれた無常鬼たち――白無常と黒無常の非二元性に着目して――.pdf


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