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大谷亨_清末の巨人と小人へのまなざし──新聞・画報の見世物記事を主な資料として
  发布时间: 2017-09-09   信息员:   浏览次数: 10

『饕餮』第22号 20149

清末の巨人と小人へのまなざし

──新聞・画報の見世物記事を主な資料として  

大谷亨 

はじめに

 下掲の絵(図1は、1867年に開催された第2回パリ万国博覧会における中国館の様子を描いたものである。絵中央に見えるのは、異様に大きな、そして異様に小さな、2人の中国人男性の姿である。彼等は、旁らに中国人女性を伴いながら、双方の身長異常を際立たせるかのように並立し、周囲の西洋人の視線を集めている。

 鹿島茂氏は、『絶景、パリ万国博覧会―サン=シモン鉄の夢』において、パリ万博の同時代人、フレデリック・デュキュアン(Frederic Ducuing)のコメントを引用しつつ、画中の巨人・小人が万博に展示されるまでの経緯、及び展示をめぐる西洋での反応について述べている。

 デュキュアンが残したコメントは以下の通りである。

  

中国人は自然に勝つという点に野心を燃やしている。だから、盆栽を我々に得意げに見せたりする。(……)こうした中国文明の勝利、それは巨人と小人という、自然の二つの奇形という形で示されている。

  

 冒頭の「自然に勝つ」と、末尾の「自然の二つの奇形」が些か矛盾しているようにも思えるが、いずれにせよ中国館で披露された巨人と小人の展示を中国的観念に基づくものと理解していることがわかる。これを受け、鹿島氏は以下のように述べている。

  

 明らかに、デュキュアンは、中国が巨人と小人を万国博覧会に「陳列」していることに困惑を感じ、それは纏足と同じ発想に基づく考え方だろうと結論しているが、いずれにしても、この「巨人と小人」は万国博覧会の大きな話題となったことだけは確かなようである。

 ただ、それにしても、今日の我々の感受性からすると、「芸者を展示する」という日本の発想もすごいが、「巨人と小人を展示する」という中国の発想もすごい。あるいは、最後まで出展を拒否していた中国政府は、どうせ西洋人の見世物になるのなら見世物然としたものを送ってやれと、主催者側の意図を逆手にとっていたのかもしれない。

  

 鹿島氏は、巨人と小人の展示を「中国政府」主導のものであるとし、その「中国の発想」に対するデュキュアンの反応を「困惑」と評している。しかし、少なくとも初期万博と清朝政府の関係を考察した諸研究の成果を見る限り、清朝政府はパリ万博には不参加だったようである。

 また、鹿島氏が引用したデュキュアンのコメントも些か事実と異なるように思われる。というのも、画中の巨人は万博の数年前より既に西洋において、しばしば小人とコンビを組まされ見世物となっていた人物だからである(第1章にて後述)。当時において巨人・小人を見世物とする観念は、中国ではなくむしろ西洋にこそ根付いていたのではないだろうか。

 いずれにせよ、中国館で披露された巨人と小人の展示は、中国人主導のものではなく、むしろ西洋人による西洋人のためのものであったと考えるのが妥当と思われるのである。

そして小論ではまさにこの仮説を、中国人の観念史的側面から検証していきたいと考えている。すなわち、巨人・小人に対する清末の人々の認識を調査し、その結果を上記の展示と照合させ、果たしてそれが当時の中国人によって発想され得るものであったのかを考察していくのである。

主な資料となるのは、清末に陸続と刊行された新聞・画報の類いである。具体的なタイトルとしては、1861年にイギリスの商社、字林洋行より創刊された『上海新報』1872年にアーネスト・メイジャー(Ernest Major)によって創刊された『申報』、そして1884年に『申報』の付録として創刊された『点石斎画報』等である。これらの媒体には、画中(図1)の人物を含む巨人と小人についての記事がしばしば掲載された。小論ではそれらに記録された巨人・小人へのまなざしを読み解いていく。

  

第1章 19世紀に西洋で活躍した中国人の巨人と小人

 清末の外交官である張徳彝は、斌椿使節団(中国初の西洋諸国への外交使節団)に参加した際、『航海述奇』という日記を残している。ここではそのなかから、万博のおよそ1年前の1866511日に、彼が水晶宮(Crystal Palace)に遊んだ際の記録を確認することとしよう。彼はそこで中国人の巨人と小人に遭遇したという。

  

ちょうど中国人が来ており、男のノッポとチビで、拱手の礼を終えると席に着いた。ノッポの方は身長約8尺で、年の頃は30を超えていた。中国式の長衣と短い外套を着ており、頭には四品の官職を戴いていた。彼に役職を尋ねると、曾て府知事の位を金で買ったという。彼の故郷と姓名を尋ねると、自ら湖北の詹九五と称した。チビの方は姓を杜、名を敖富といい、身長はやっと2尺で、年の頃は30である。紫色の絹の裏地がついた服と、黄色い薄衣でできた馬掛を着て、紅い房の小さな帽子をかぶっており、江南の人だという。女性が1人付いており、年の頃はおよそ20である。尋ねたところ、上海の娼妓であることがわかった。この3人は西洋にやってきて、人々に見られるのに乗じて、一儲けしようとしているのだ。2人の広東東部の者が伴っていたが、彼らの姓や字についてはよくわからない。

  

 日記には、巨人(詹九五)・小人(杜敖富)・上海の娼妓・謎の広東人2人の計5人の存在が記録されている。ちなみに張徳彝は、巨人の名を「詹九五」としているが、「詹五九」の誤りと思われる(小論では彼を「詹五」と呼び習わすことにする)。ちなみに、小論冒頭に掲げた絵(1)において、巨人の背後に「詹五九」と記されたパネルが描かれており、張徳彝が遭遇した巨人と同一人物であることが確認できる。

 詹五等一行の足跡は、張徳彝の日記に限らず、イギリスの博物学者フランシス・バックランド(Francis Buckland)も記録を残している。バックランドは、万博の2年前の1865年、エジプシャン・ホール(Egyptian Hall)にて、詹五等を見物したようである。

  

チャンは部屋の奥に見え、一続きのカーペットに覆われた階段を上った先の、王座のようなものの上に、石の神像の如く座っていた。彼は入念な針仕事による美しい模様に大いに飾られた、素敵な白いサテンの衣服を身につけていた。彼の右手には、少し小ぶりの王座があり、彼の妻が座っていた。さらに、彼の足には小人が座っており、いずれも中国からやって来た人物である。王座への階段は、両端を自国の衣裳(弁髪を含む)に身を包んだ2人の中国人に守られていた。

  

チャン(Chang)というのは詹五の外国での呼び名である。ちなみに、バックランドは詹五周辺の人物の名前を詳細に記録しており、それによると、詹五の妻はキン・フー(King Foo)或いはオネスト・リリー(Honest Lily)、小人はチュン・モウ(Chung Mow)、2人の侍者はそれぞれウー・クゥアン・トゥーン(Woo-Kwan-Toon)とリン・アー・ルック(Ling Ah Look)と呼ばれていたようである。

張徳彝とバックランド、双方の記録を照らし合わせると、巨人と小人、そして女性1人に、侍者2人の組み合わせ、という点において一致している。

 さらに、1865-1866年頃の英国の日刊紙『タイムズ(Times of London)』を見ると、水晶宮やエジプシャン・ホールの誌面広告に、チャンとチュン・モウの名が頻繁に登場するのが確認できる(2)。ちなみに、このプログラムを見てもわかるとおり、中国人の小人はチュン・モウの他に、チェ・マ(Che Mhaという人物がいたようである。チェ・マの容貌(3)を見る限り、例えば図1の実写と思われる図4の小人と同一人物とは考えにくく、おそらく4の小人がチュン・モウその人と思われる(もっともその他の小人がいた可能性もある)。タイムズの誌面広告を通事的に見ても、万博の前後で頻繁に詹五の相方を務めたのはチュン・モウであり、おそらく万博の小人も彼であった可能性が高い。

 さしあたり小論において小人の特定は議論に影響しないため、敢えてこれ以上の追求はしないが、とにかくパリ万博に現れた巨人・小人が、その数年前から、既に西洋で活躍していた人物であったということは確かなようである。

 では次章より、本章で確認された巨人・小人たちが西洋に活躍の場を求めたその背景について考察を試みたい。


第2章清末における巨人へのまなざし

 本章では、特に詹五の洋行に至る経緯について考察を試みる。ここで主な資料となるのは、パリ万博が開催された1867年から下ること数年、1870年代に中国で発行された新聞記事である。それらには、西洋で活躍する詹五の後続として、様々な巨人が陸続と洋行する状況が報じられている。

 まずは、清末の新聞記事から多くの話題が採られているという、徐珂(1869-1928)編纂の稗史『清稗類鈔』の「容止類」より、詹五の半生が記された「詹五身暴長(詹五、身長が急激に伸びる)」の記述を確認することとしたい(〔〕内は筆者による補足。なお原文の点切りは筆者による)。

  

巨人の詹五は徽州の農家の息子である。15歳の時分に家で同居していたのは妹ただ一人で、〔妹は〕13歳になったばかりであった。ある日、詹五は田んぼの間を流れる細い水路で1匹の大きなタウナギを捕まえた。〔タウナギ〕は短いもののとても太く、帰宅して妹と共に煮て食べた。床に臥して夜中に至った頃、詹五はいきなり背が伸びたのを感じた。頭と足が両方とも壁に当たったので、その異変に気が付いたのだ。夜明けに起きて鏡を取り、自らを映すと、身長が1丈ほどに伸び、ひどく痩せ、頭の大きさは一斗升ほどになっていて、大変驚いた。(中略)詹五はそれ以来食べる量が極端に増えたが、家は赤貧に喘いでいたため、日がな一日満腹になることはなかった。〔詹五には〕漢口に移住した叔父がおり、「詹大有」という墨屋を営んでいた。〔詹五は〕赴いて彼に頼ることにした。〔そこで〕たまたまある西洋人が詹五と出会い、大変驚いた。大金を出して彼を雇い、洋行し、観客に金銭1枚を求めた。詹五は各国を遍歴し、大金を稼いだ。

  

 引用箇所によると、彼は15歳の時分に奇妙な魚を食べたために巨大化し、その後、西洋へ渡り見世物として大金を稼いだという。傍線部には、詹五が洋行するきっかけとして、西洋人との出会いがあったことが記されている。徽州の田舎から漢口という都会に居を移した詹五は、言うなればその異形の肉体を西洋人に発見された。実はこの「西洋人に発見される」というパターンは、その他の巨人記事においても散見されるもので、巨人が洋行するオーソドックスな契機となっていたものと推察される。

 関連する記事に、『申報』の「新出長人(新たに巨人現る)」(1877619日)がある。ここでは姚三という巨人が外国送りになる可能性がほのめかされている。

  

香港の新聞が言うには、現在香港に1人の巨人がやって来ており、名を姚三といい、身長83寸で、体軀も堂々としており、詹五といえども彼の肩を望むのが精一杯である。すでに香港総督とは面会済みで、おそらくまた招かれて外国を訪問するのだろう。

  

 詹五よりも長身という巨人姚三だが、数日後、同じく『申報』に「長人履歴(巨人の履歴)」(187773日)という姚三についての記事が掲載される。

  

香港の巨人姚三は、現在その概略を聞いたところによると、姚という姓で3番目の子供で、22歳であるという。(中略)18歳になった折り、たまたま池で遊んでいた際に鱗のない魚を捕まえ、持ち帰って家で煮て食べた。すると、突然2ヶ月ほど病にうなされ、治ると身長があり得ないほどに伸びたという。(中略)以上の事は全て西洋の新聞で報じられたことだが、惜しいかな姚三の体が常には健康でなく詹五には及ばないとも言っていた。

  

 傍線部に、この記事が西洋の新聞記事の転載とあるため、姚三は実際に洋行したものと考えられる。ただし、ここにおいて彼が洋行したか否かはもはや問題ではない。これら一連の記事で重要なのは、「巨人は外国に送るもの」という一般通念が存在したことを伺わせる記述に他ならないからだ。

 では、かかる通念が生じた背景を『上海新報』の「湖南長人(湖南の長人)」(187226日)という記事に探ることとしよう。ここで報じられた湖南の巨人兄妹の話は、記者が南京の訪問者から仕入れたものだという。詹五や姚三と同様に湖南の兄妹も奇妙な魚を喰らったことが原因で巨人化してしまう。

  

そこでウナギを1匹買って兄妹で煮て食べた。一晩中眠れず、かすかに身体に不快感を覚えた。翌朝起きると、兄は自分の身体を見て大変驚き真っ青になった。なんと身体が大きくたくましくなっていたのである。(中略)このために日に日に追い込まれ、親戚や隣人たちも哀れみをかけるのが難しくなった。農家も決して彼らを雇おうとはしなかった。食べる量があまりに多いからだ。3月に長沙では、これまでずっと「都天会」という祭りが行われてきた。〔今年〕祭りを行うにあたり、物好きが兄妹の難儀を哀れみ、彼らに入会を薦めた。兄は地方鬼に扮し、妹は自縊鬼に扮した。お金を集めるための計画ではなく、ただこれによって〔兄妹の〕腹を満たしてやろうとしたのだ。南京からの訪問者は祭りを見物した際、その目でその兄妹を見た。〔だから〕彼の言葉は甚だ正確だ。4月の半ばに至った後、兄妹は餓死してしまったという知らせを耳にした。哀れであるなあ。もし洋行させ各国を遊歴させていたら、必ずしもこれまで詹巨人に栄誉を独占させることにはならなかっただろう。実に大きな幸せと大きな不幸である。

  

 魚の毒に当たり巨人化するまでの流れに特に目新しい記述は見られない。しかし、兄妹が巨人化した後に辿った運命が語られた箇所、特に詹五の名も登場する傍線部は注目に値するだろう。

 肥大した肉体と食欲を満たせなかった兄妹は、周囲の援助もむなしく餓死してしまったという。詹五が外国で大金を稼いだということは、『清稗類鈔』の記述にて確認済みだが、ここではそんな詹五と対照的な運命を辿った兄妹の悲運が嘆かれているのである。

 では詹五とこの兄妹、同じ巨人であるにもかかわらず、なぜかようにも異なる運命を辿ることとなったのか。恐らくその原因は、傍線部にもある通り、彼等が外国に行く機会を得られたか否か(即ち西洋人に発見され得たか否か)という一点に尽きるものと考えられる。つまりこの記事は、清末の中国において、巨人は見世物として糊口をしのぐことができず、下手をすれば餓死する程の貧困を余儀なくされていたということを暗示しているのではないだろうか。

 この推論をより確かにするものとして、『上海新報』に報じられた下掲の記事がある。

  

以前、ラッセル商会の巨人が外国人に伴って外国に行きたいと願っていた。ところが払う金が少なく、その願いは叶っていなかった。聞くところによると既に渡航費について折り合いがついたようで、23週間後には出航するという。〔なぜ巨人が外国行きを願ったのかと言えば〕巨人は中国では愚鈍とされるが、外国人は巨人を見ると意外にも「奇貨居くべし」とするからである。もし短軀の者であれば、恐らく外国人はそれを見ると追い払おうとしても追い払いきれず、棒で殴ったり鞭で打ったりするに違いない。面白いものである。

  

 ある巨人が念願かなって外国に行けることになった、というのがここで報じられた主な出来事だ。しかし注目すべきは、なぜこの巨人が中国を出て外国に行くことを願ったのか、その理由が述べられた記事後半の記述である。

 傍線部では、中国人と「外国人(おそらく西洋人)」の、巨人に対する相隔たるまなざしについて記されている。即ち、中国であくまで愚鈍と見なされ、取るに足らない存在である巨人が、西洋においては見世物として重宝されることの意外性が語られているのである。

 この記者をはじめ清末の人々は、中国各地に出現した巨人が陸続と洋行し、さらには大金まで稼ぎだすその状況に甚だ違和感を覚えたのではないだろうか。彼らはこれらの記事を通して、巨人を珍しがる西洋人のまなざしを珍しがっていたとも言えるのかもしれない。先に確認した「湖南長人」において、成功をおさめた詹五の名が些か悪意ある記述と共に語られていたのも、恐らくこのことと深く関係していたものと考えられる。

 では関連する記事として、『上海新報』より「長人着西人服色(巨人、洋服を着る)」(187223日)を紹介することとしよう。

  

詹巨人が外国から上海に帰ってきた。帽子を戴いて靴を履き、上下の服を着ているが、なんと西洋式である。21日に麗如銀行にやって来た。(中略)〔詹巨人は〕外国で娶った女性、ならびに以前洋行に連れて行った女子をつれて3人で麗如銀行から出てきた。みな西洋式の衣服を着ている。A中国人たちは驚き互いに言った。「これは徽州で墨屋を営む詹巨人ではないか。どうして外国の巨人などと言ったのか」。Bそこでようやく巨人は高みから辺り全体を見下ろしたが、ほとんど何も聞こえず何も見えないかのように振る舞い、得意げであった。中国人を仲間として不足としているのだ。本当に「海を見たものは少々の川をなんとも思わず、外国を遊歴したもは〔中国〕人をなんとも思わない」である。「環境が気質を変え養育が体質を変える」である。これらの言葉はいずれもこのことを言っているのではないだろうか。ああ、人は必ずしも一芸に長じていなくとも、長身でさえあればいいのだ。

  

 傍線部(A)では、「外国の巨人」を一目見ようと集まった中国人たちが、その正体が詹五であることに気づき、酷く落胆する様子が記されている。傍線部(B)では、西洋かぶれの詹五の高飛車な様子が悪意に満ちた筆致で描かれ、詹五がただ背が高いだけの無能であることを皮肉って文章が閉じられている。その他の詹五を報じた記事と併せて見るに、どうやらこれが当時の中国人の巨人詹五に対する標準的なスタンスだったようである。そして詹五をめぐる記事は、しばしば彼の洋装について触れている。右掲の写真5には、洋装した詹五の姿が見える。

 洋行帰りの詹五が洋服を普段着としていることに執拗にこだわる当時の記事は、成功した巨人に対する妬み、嫉み、僻みの感情を放っている。こともあろうに、中国において何ら価値を持たない愚鈍な巨人が、ある日を境に名実共に彼らを高みから見下す存在となったのだから、このような反応も言わば自然な帰結として理解されるであろう。

  

本章では巨人を報じた記事をいくつか確認した。結果、少なくとも当時の中国において巨人は見世物に(すら)なり得ない存在であり、いずれも西洋人に発見されることで洋行のきっかけを掴み、そこでようやく活躍の場を得たのであった。  

 さて次章では、翻って小人に対する清末の人々のまなざしを探っていくこととしよう。実はチュン・モウをはじめ、小人に関する中国側の記録は、本章で主な資料とした『上海新報』や『申報』にはほとんど見られない。しかし、一層通俗的な媒体である画報、特に次項で主に取り扱う『点石斎画報』には、小人をめぐる見世物記事が思いのほか残されているのである。 

  

第3章清末における小人へのまなざし

 はじめに、「僥遺種(僥の末裔)」(6)という記事を確認することとしよう。

いにしえには所謂僥国というものがあった。そのなかの侏儒という輩は一例ではなく、まだその国に入ったことのない者は、そもそも一例でも見られれば十分と思うのである。蘇城の玄妙観はもとより繁華で知られている。この正月に見世物を行う香具師がおり、一人の小人を携えやって来て、人々を集めて見せた。小人の出生地を聞くと、西洋の小人国から連れてきたという。年はすでに51であるが身長は2尺に満たない。頭には西洋の帽子を被り、洋服を着て、ひげと髪はごましおで、手にはパイプを持ち、刻みタバコを吸っており、辺りを見回し得意げである。

  

 絵には、広場の一角にできた人集りと、その中心で拱手のポーズをとる洋服に身を包んだ小人の姿が描かれている。我々に背を向けた3人の人物が、恐らく香具師の姿であろう。テキスト部分によれば、これは正月に玄妙観で催された見世物で、香具師と共に現れた小人は、西洋の小人国より連れてきた人物とのふれこみであったという。

ちなみに、西洋人の小人を売り物にした見世物については、他に「復見侏儒(再び侏儒現る)」(7)という記事がある。テキスト部分によると、この小人はイタリア人であるという。絵を見ると、「遺種」と同様に、小人をしげしげと見つめる人々の姿や、香具師風の男(西洋人か)が描かれている。どうやら小人を見世物にするというまなざしに、洋の東西に径庭はなかったようである。

これらの記事を見るに、清末において小人は見世物としてポピュラーな存在であり、その点において巨人とは明確に異なる存在であったことがわかる。

 では以下の部分より、巨人と小人をめぐるまなざしの相違について考察を進めていきたい。  

 再び、記事「遺種」に注目しよう。まずは、そのタイトルが意味するところである。ここで言及された「僥」とは、前漢頃までに成立したとされる空想的地理書『山海経』に記された小人のことである。つまりここでは、小人症の男性が古代中国において中華世界の周縁に夢想された〈空想的小人〉に関連づけられているのである。

 ちなみに『点石斎画報』では、こうした『山海経』の典故が、特に各地に出現した異形の存在を報じる際に、そのテキスト及び絵においてしばしば用いられる。画報の記者及び読者は現実世界に現れた不可解な存在を、書物の記述をよりどころに解釈していたのである。そしてかかる認識様式は小人にも同様に適応されたと考えるべきであろう。

 ただし一口に書物の引用といっても、そこにはバリエーションがある。その一例として、ここでは『呉友如画宝』から「離形得似(実物を離れながらにしてその姿を再現)」(図8)という記事を紹介することとしたい。

西洋人のスタンレーは、去年アフリカに状況調査に行き、とある地帯に到った。そこは木々が生い茂り、緑の葉が陰をつくること、延々と数十里を下らなかった。ここの人々は身長は英尺3尺程を越えなかった。男は狩猟を担当し、女は耕作するのを習いとした。その他のことはよくわからない。スタンレー氏は彼等の身体がとても小さいので、数人を連れて国に帰りその珍しさを披露しようと考えた。しかし思わぬことに彼等は土地を移動するのが苦手なようで、道中で病気になるもの死んでしまうものが数え切れなかった。ある人が言った。「生きて連れて帰れないのなら、撮影をするべきだ」。スタンレー氏は賛成し、その姿を撮影し彼等を放してやった。ああ、龍好みで名を馳せた県尹〔葉公子高〕は短軀で痩せ、着物の重さにも耐えられないほどだった。狗国の使臣〔晏嬰〕は身長6尺未満だった。狐駘での戦いに敗れ、臧孫紇は「侏儒だ、侏儒だ」と責められた。燕趙を過ぎるとき、〔人々は〕家から出てきて、〔名高き〕孟嘗君を見物したが、その結果、やはりちっぽけなのを嘲った。公を喜ばせ公を怒らせ、王珣はヒゲ参軍〔郗超〕に劣らず、その短軀を用いて長となった。李諧は短軀で醜悪なのをものともしなかった。これらはいずれも史書に載っているように、みな体軀は立派でない。どうしてそれらをいちいち写し、いちいち保存することができるだろうか。

  

 スタンレーによってアフリカ大陸で発見された短軀の民族とは、おそらくピグミー族のことである。この記事では、彼等ピグミー族を語るにあたり、「葉公子高」「晏嬰」「臧孫紇」「孟嘗君」「王珣」「李諧」等の「史書」由来という短軀の人物が引き合いに出されている。先に『山海経』の僥を〈空想的小人〉としたが、ここに列挙されたそれらは、言うなれば〈現実的小人〉と見なすべき存在ではないだろうか。

 どうやら、ここに確認される小人記事の典拠における〈現実性〉と〈空想性〉の相違は、『点石斎画報』の記者たちも同様に意識していたようである。その根拠となる記述が、「侏儒留影(侏儒の姿を写真で留める)」(9)という記事に見られる。本記事は、「離形得似」と主な内容を一にするものであるが、いくつかの相違点が見られる。以下に引用するのは、「離形得似」と大きく相違する文頭と文末箇所である。

  

いにしえの僥氏人は身長3尺、陀移国人もまた3尺、鵠国人は7寸、勒畢国人は3寸。これら往事〔の記載〕に徴れているのは、荒れ果てた際涯の地には、もとより一種の小人がいたということであるが、〔それらは〕維翰の「半人」と笑われること、阮孚の帽子を被せて嗤われること、のような中国の侏儒だけに見られるタイプとは異なる。(中略)このようであれば、『神異経』や『博物誌』の記述は、もともと全てが架空のことではないということになろう。

  

 本記事の叙述は以下のようになされている。まず冒頭で、「氏」「陀移国」「鵠国」「畢勒国」という〈空想的小人〉、ないしは小人国の名が列挙される。続く記述では、これら中華世界の周縁に存在するとされる小人が、「維翰」や「阮孚」といった史書由来の「中国の侏儒」とは明確に異なる存在であると述べられる。その後、中略部分においてスタンレーがピグミー族を発見し、その姿を写真におさめるという、「離形得似」と重複する内容が記される。言うまでもなく、この記事においてピグミー族は「中国の侏儒」ではなく、僥等に類する存在と見なされている。それは文末における、『神異経』『博物誌』への言及からも明らかであろう。つまり、スタンレーによるピグミー族発見のニュースを受け、荒唐無稽な内容が記されていると思しき書物が、必ずしも「架空のこと」ばかりを記しているわけではないのだと結論づけられているのである。

 少なくとも本記事から明らかなのは、『山海経』的書物と史書は、共に小人のよりどころとされながら、両者の間には信憑性における断絶が存在し、またそれぞれに記された小人も、言わば〈空想的小人〉と〈現実的小人〉として区別されていたということである。しかし何にも増して興味深いのは、眼前に現れた(或いはニュースとして側聞した)小人が、時に〈空想的小人〉に、時に〈現実的小人〉に仮託されるという、その曖昧性である。

 実はこの曖昧性、「離形得似」と「侏儒留影」に描かれた小人の形象にも表れている。見ての通り「離形得似」の小人たちは、この世の物とは思えぬほどに矮小である。ところが「侏儒留影」に描かれたそれらは比較的大柄で、ジャングルに暮らす短軀の土人を写実的に再現しようとする意思が読み取れる。つまり、「離形得似」はテキスト部分においてピグミー族を〈現実的小人〉に仮託しながら、絵の次元においては裏腹に〈空想的小人〉を描き、「侏儒留影」ではそれとは反対に、テキスト部分で〈空想的小人〉に仮託し、絵では〈現実的小人〉を描くのである。

 これらの記事を見る限り、小人の報道では、〈空想的小人〉と〈現実的小人〉が、些か混乱しながら引用されていたということが指摘できるのではないだろうか。以下の部分では、この点に注意しつつ、巨人記事との比較を試みることとしたい。

 では一例として、『点石斎画報』の「長人傷股(巨人ももを負傷する)」(図10)という記事を紹介しよう。

『漢書』が言うには、巨人の巨無覇は1頭立ての馬車には乗せることができず、3匹の馬でも持ちこたえられない。となれば、その人が長身であればその車も大きくするのがよいだろう。そうすれば重さに耐えることができて、遠くまで行くことができる。徽人の詹五は中外にその名が広まっている。先日人力車に乗ってフランス租界を通過する際、体が重すぎたために車軸を断ち切ってしまい、車は転倒し、ももを怪我した。78人が力を尽くしてようやく抱え上げることができた。巨無覇と比べてもきっと負けていないだろう。しかし、ある人は言う。「そうではない。そうではない。夏后氏の車は防風氏を載せたものの僅かその骨を入れただけであり、叔孫氏の車は僑如を載せたものの僅かにその首を入れただけだ。極々小さな人力車であり、これを押し潰したことなど少しも奇妙ではない」。彼の言葉は本当に所謂「長人にあって長話をする」だ。

  

 ここでは、詹五が人力車で事故に遭ったというニュースを語るにあたり、「巨無覇」「防風氏」「僑如」が引き合いに出されている。その他の巨人記事を併せて見るに、「曹交」なども巨人を語る際にしばしば俎上にあがる人物として確認できるが、これらはいずれも、『国語』『春秋左氏伝』『孟子』『漢書』等の史書或いは経書に記された存在である。紙幅の都合上、ここではその一例を提示するに留めるが、どうやら小人記事においてしばしば典拠とされた『山海経』等の空想性の強い書物が、巨人記事の場合、そのよりどころとはならなかったようである。

 むろん、だからといって神話的存在である防風氏等を〈現実的巨人〉と見なすのは無理があるだろう。ただ、それら〈空想的巨人〉は、をはじめとする〈空想的小人〉が共通項として持つ、「中華世界の周縁に夢想された異形の民族」という要素を持たない。例えば『山海経』には、「中華世界の周縁に夢想された異形の民族」としての巨人の存在が記されている。にもかかわらず、それらが仮託の対象となることはないのである。

 ただし管見の限り一例だけ、『三才図会』等を由来とする「長人国」(の住人)に詹五が仮託された例として、『上海新報』の「長人二次出洋(巨人の2度目の外国行き)」(187224)という記事がある。本記事は詹五の外国行きを報じたものであるが、特に後半部分でなされる仮託の様相は、小人のそれとは些か異なるものとなっている。

  

友人が言うには、かつて多くの老人が以下のように言うのを聞いたという。「海外には長人国があり、最も背の高い者が地に臥すと腹は天の高さに等しく、2番目に高い者が地面に坐ると首は天の高さに等しく、3番目に高い者が地面に立つと頭は天を頂く」。詹五は長軀であるといってもその類いではない。どうして外国人が〔詹五を〕見て珍しがることがあろうか。してみると長人国の話は信ずるべきではないということになろう。

  

 ここでの内容を、例えば先に確認した「侏儒留影」と比較したい。引用箇所ではまず、海外に存在するとされる長人国の言い伝えが紹介される。「侏儒留影」が記事冒頭で小人国の名を列挙していたことを想起すれば、ここまでの内容に大差はない。しかし問題となるのはそれに続くくだりである。見ての通り「長人二次出洋」では、長人国(の住人)と詹五の類似性が否定され、「仮に海外に長人国が存在するのであれば、巨人を見慣れているはずの外国人が詹五を見て驚くはずはない」といった理屈によって、冒頭の言い伝えの信憑性が否定されてしまう。すでに確認したとおり、「侏儒留影」では、小人国(の住人)とピグミー族が同一視され、『神異経』や『博物志』の信憑性の高さが主張されていた。

 つまり両記事は、共に「中華世界の周縁に夢想された異形の民族」としての巨人・小人を引き合いに出しながら、結果的にその仮託がもたらす効果が正反対の方向を向いているのである。これらの事例に鑑みても、やはり巨人・小人記事における典故の傾向に相違を見いだすことが可能であろう。

 もしかすると、ここに看取される相違は、先に指摘した両者が見世物となり得たか否かというその相違と何らかの関係を有していたのかもしれない。敢えて仮説を述べるならば、清末において巨人・小人が見世物となるか否か、つまりそれぞれが異形の存在と見なされるか否かは、その身体性が『山海経』的異形イメージを喚起させるか否か、つまり記事中に『山海経』等の引用がなされるか否かという相違として表れるのではないだろうか。巨人・小人という存在の特殊性に鑑みれば、考察の余地はあるように思われる。

 例えば、18世紀の博物学者ビュフォン(Buffon)は、奇形生物の定義を、「過剰によるもの、欠如によるもの、部分の転倒、もしくは誤った配置によるもの」としている。しかし、巨人と小人は厳密にはこれらの分類項目から漏れ落ちた存在である。なぜなら彼等の奇形性とは、正常と異常の厳密な線引きを許さぬ大小という程度に依存したものだからである。特に画報の小人記事において看取された、〈空想〉と〈現実〉を行き来するその境界性は、まさにこのことを象徴しているのではないだろうか。つまり、巨人・小人が見世物と見なされるには、その他の奇形(即ちビュフォンの定義におさまる奇形)が必ずしも必要としない、プラスアルファの作用が不可欠だったのかもしれない。そしてそれが清末の中国の場合、『山海経』的異形イメージだったのではないだろうか。

 むろんこの問題は、中国人の巨人・小人観、及び見世物観のより広範な調査を必要とするものであり、今後の課題としたい。

第4章巨人・小人の一対の関係を支える原理

 前章までの考察によって、巨人と小人をめぐる清末の人々のまなざしの一端が明らかとなった。彼等は、巨人を取るに足らない存在と一顧だにしなかった一方で、小人を好んで見世物にするという特異なまなざしを持っていた。この点に限っても、パリ万博の巨人と小人を並列させたあの展示が、中国人によって発想されたものではなかったと考えるのが妥当と思われるのである。本章ではこの仮説にさらに根拠を与えるため、上記の展示において巨人と小人が一対の関係にあったことに注目し、考察を深めていきたい。

 でははじめに、『点石斎画報』より「一長一短(ノッポとチビ)」(11)という記事を取り上げることとしよう。

人の〔体軀の〕長短が一様でないのは、その昔から今に至るまで枚挙にいとまがない。遠く彼方の根拠のないものはさておいて、申香は身長が18尺、巨無覇は1丈、阮翁仲は13尺、賈逵は82寸、朱雲は8尺と少し、同じく8尺と少しの王商は匈奴に畏れられていた。これらが巨人の最も著しい者たちである。短軀のものは、例えば郭解はチビで勇敢で、臧紇は侏儒で、王珣はチビ主薄と呼ばれ、孟嘗は小丈夫とされた。およその所を挙げたが、短軀でない者はない。 (A)伝えられるところのこれらの者は、長軀であったり短軀であったり、その種類を一にせず、また時代も一にしない。そしてまた同じ所にいることもできず、一つに成って壮大な景観となることもない。誠に残念なことである。現在わが中国には詹五がいるが、その仕事ぶりは10尺の文王や9尺の湯王には遠く及ばず、かえって粟を食べるその様は94寸の曹交の如きであり、他には何も長所が見当たらず、長じているのは体軀だけだ。しかし西洋の人々は彼を心から慕っている。近頃フランスに赴いた際には、あるフランス人がこれを見て「奇貨居くべし」と言った。そうして一人の小人を探し出し、詹五と並んで立たせた。〔小人は〕ただ詹五の足に纏わり敬意を示すだけだが、〔フランス人は〕計画が上手くいったと思い喜んだ。(B)〔巨人と小人は〕バイエルン会堂に招かれ演劇を行い、しばし観客に吹き出さない者はいなかった。舞台に上がり音楽を奏でる際には、詹五は威勢よく高らかに「大江東去」を歌い、その声はさながら大きな雷が雲の外に突き抜けるようであった。しかし小人の方は正装をし、かしこまった物言いで、その声はまるでブヨの羽音が絶えないようで、耳をそばだてて聴いても最後まで何を言っているのかわからない。思うに両者を比べることで見劣りし、このように調子がちぐはぐなのだろう。天下の奇観であるなあ。

  

 この記事は、「バイエルン会堂」にて開催されたという巨人詹五と某小人を一対で披露した見世物を報じたものである。本記事の趣旨は、かつて中国において巨人・小人が一所に集まることがなかったことを遺憾とする傍線部(A)、そして、それらが一対となることでいかに興味深い光景が生まれるかを説いた傍線部(B)に端的に表れている。これらの記述を見るに、この中国人の記者及び大多数の読者にとって、巨人と小人を一対とする見世物は、初めて触れる目新しい外国文化であったことが伺える。おそらく清末の人々は、巨人・小人を一対の関係とは認識していなかったのである。

 では以下の部分より、彼等にそれが不可能であった根拠を、巨人・小人の一対の関係を支える根本的な原理を明らかにしつつ提示していきたい。 

 まずは、一対となった巨人・小人をめぐる西洋側の資料を確認することとしよう。ここで取り上げるのは、18801120日付けのScientific American Supplement(以下、SAS)における、ロンドンの王立水族館に現れた詹五とチェ・マに関する記事である。

  

ロンドンの王立水族館では、しばらく前より小人と巨人を披露していた。2人とも中国の出身で、彼等はその身長において注目に値する。チャンという巨人は、北京の出身で、特に並外れており、その身長は8フィートである。(A)このような身長は、その大きさが科学的に記録された巨人のなかでも非常に珍しいものと言ってよい。小人のチェ・マは、身長わずか3フィートで、小人の世界でもかなり珍しいものだ。(中略)(B)ロンドンに現れた彼ら3人〔チャン、チェ・マ、ヘンリー・ブルスター〕の極めて異常な存在は、ちょうどミラノでタルッフィ教授が発表し、2冊の身長異常に関する研究論文に書かれ、小人と巨人の成長について観察された法則をこの目で確かめる絶好の機会を与えてくれた。

  

 注目すべきは、傍線部(A)に見られる、「その大きさが科学的に記録されてきた巨人のなかでも」や「小人の世界でも」といった記述と共に、チャン(詹五)やチェ・マの特異性が述べられている点である。当然これらの記述は、チャンやチェ・マという特定の巨人・小人を、その他数多の巨人・小人と共に個体別比較した結果なされるものである。換言すれば、ここでは身体という基準に基づく一元的体系が存在し、その中に両者は位置づけられている。

 そしてかかる体系は、傍線部(B)に登場するタルッフィにとって不可欠のものだったようである。記事によれば、タルッフィは蒐集した巨人・小人のサンプルから骨格の各部位を測定し、そのデータを2冊の研究論文にしたためたという。省略したものの、記事後半では数人の巨人・小人を紹介しながら、彼らの大腿骨や上腕骨、脊椎等の長短について微細な報告がなされている。

 つまりタルッフィを始め、彼等西洋人の視線の先にあったのは、巨人・小人の身体そのものであり、それ以上でもそれ以下でもなかったということである。

 当然、このようなまなざしのもとに行われる各個体の同定作業は、その他数多の個体との差異に基づく比較が不可欠となる。その結果形成されるのが上述の体系に他ならない。

ここにおける「身体」という基準に特化した一元的体系は、巨人と小人に「共通の地平」(=共通の比較基準)を与えることとなる(図13)。この条件のもとにおいて漸く巨人と小人は比較対象となるのである。

このことは、例えば図12の絵にも端的に表れている。ここには、巨人と小人、そして観客の三者が描かれているが、彼等を画中に並置させているのは、他でもなく絵中央に描かれた身長測定器という「共通の地平」なのである。

 おそらく巨人と小人を一対とする見世物は、両者の差異性の強調を目論んだ興行的意図によるものと考えられる。しかし、ここで行われる両者の比較とは、巨人・小人の身体のみがまなざしの対象となる場合において、本来的に不可欠の作業であったと言えるだろう。これがまさに、巨人・小人の一対の関係を成立させる根本的な原理である。

 では、このことを踏まえた上で、清末における巨人・小人への認識様式を確認することとしよう。おそらく、ここにおいて想起すべきは、画報の記事で確認された「書物の引用」という行為である。つまり、彼等がまなざしの対象としていたのは、巨人・小人の身体というよりも、各身体と連想関係にあった書物の記述であった。言うなれば、ここにおける書物の引用とは、類似に基づく認識である。差異の体系に基づく各身体の比較をよりどころとしたタルッフィに対し、清末の人々は、各身体から連想される書物中の存在(例えば僥や孟嘗君、或いは防風氏や僑如)の蒐集によって類似の体系を形成し、そこに眼前の巨人・小人を位置づけていたのである。

 ただし図14に示した通り、清末の人々もまずは巨人・小人の身体をまなざしの対象とした。つまりここでは正常な身体との差異に基づく比較が行われる。ところが、「観客―巨人」「観客―小人」の差異性が認識されながら、「巨人―小人」の比較が行われることはない。なぜなら、認識された(正常な身体との)差異をもとに、次の段階として類似に基づく比較が開始されるからである。「眼前の○○は、△△に記された××である」といったように、認識の絶対的な拠り所となる書物の存在によって、彼等の視線は眼前の巨人・小人の身体を通り抜け、最終的に書物中の巨人・小人に行き着く。

 既に指摘したとおり、巨人と小人を一対の関係とする、即ち両者を比較するという行為は、両者の身体のみを注視する恣意的なまなざしのもとに行われる。従って、書物の記述によって眼前の巨人・小人が同定されてしまうその認識様式においては、両者を比較する必然性はなかったのである。これがまさに清末の人々が巨人・小人を一対の関係としてまなざし得なかった原因ではないだろうか。

  

第5章清末民初における新たなまなざしの誕生

 清末の人々は、その独特の認識様式から、巨人と小人の身体そのものを直視し得ず、それ故に両者を一対の関係として捉えることもなかった。しかし一方で、彼等は俄に多くなった西洋文化との交流のなか、西洋流の巨人・小人に対するまなざしと頻繁に接触する状況にも置かれていた。

 それら西洋由来の情報が、果たして清末の人々にいかほどの影響を与えたのかは定かでない。しかし、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、巨人・小人に対する新たなまなざしが中国人の間に生まれつつあったことは確かなようである。

 その痕跡が、『申報』や『点石斎画報』の記事から下ること凡そ30年、1909年に発行された『時事報館戊申全年画報』の「矮女又現北京(小人女また北京に現る)」15という記事に残されている。

 絵を見る限り、小人の見世物は新世紀に突入してなお、相も変わらぬ姿で市井の人々に享受されていたようである。しかし、テキスト部分に目を転ずれば、19世紀後半の見世物とは一線を画すまなざしをそこに見つけることができる。

以前小人女の呉盛妹がいて、東華門の東安市場で舞台に上がって金を乞うていたが、程なくして役人に取り調べを受け、捕らえられてしまった。近頃ではまた陳州の王水清という者がおり、姉妹2人を携えやって来た。またしても呉姓である。年は24になろうとするが、身長は僅か2尺余で、2本の二の腕は僅か23寸で、手のひらは銅銭ほどの大きさだ。両親が共に亡くなったので、糊口の資がなくなり、〔その短軀によって〕生計の道を謀ることになったのである。以前本誌は「特別侏儒」という記事を誌したことがあるが、思いがけず再び姉妹のコンビが現れたのだ。してみると首都は奇妙なものばかりである。だからこれを誌し、人種を研究する学者にこのことを問うのである。

  

 注目すべきは末尾の一文であろう。ここにおいて小人の根拠は、『山海経』や史書の類いではなく、「人種について研究する学者」に求められている。これは、言うなれば巨人・小人の身体が書物の記述から独立し、身体そのものがまなざしの対象となった瞬間の記録ではないだろうか。仮にこの推論が正しければ、論理上、中国において巨人が見世物となる条件は整ったということになるだろう。

 ではここで、下掲の写真(図16)に注目したい。これは、20世紀初頭、北京西直門外の農場試験場正門で撮られたものである。写真中央に、西洋婦人の隣に佇む巨大な男の姿が確認できる。以下の部分では、この巨人が農場試験場の門前に佇んでいることの意味について考察を試みたい。

  

1906415日にその創設が取り決められた農場試験場は、190866日から正式に一般公開され、俗に三貝子花園や万牲園と呼ばれた。北京在留の日本人の間では、主に植物園の名で親しまれていたようだが、俗称の一つである万牲園とは即ち動物園を意味しており、他ならぬ現在の北京動物園の前身である。つまり、ここは単なる農場試験場ではなく、動物園や植物園、さらには各種陳列室や動物標本室等を併設した複合的啓蒙施設であった。清末の近代化政策の一環として創設された農場試験場は、大本の目的を農業の振興としてはいたものの、先進諸国の視察に派遣された各使節によって動物園や植物園等の啓蒙施設の重要性が説かれ、それらは試験場内に併設されることとなったのである。

一般公開以降、農場試験場は数多くの観覧客を集めたようだが、彼等観覧客は門前に佇む巨人にチケットを見せて、ようやく入園することができた。例えば、当時の日本人向けの旅行案内記に門前の巨人についての記録が残っている。

  

正門には見上げる様な大男が番人として立つて居るが、此所の門番は代々こうした男で承け続いで居て、初代の劉玉清と云う大男の如きは身長七尺三寸五分・体重二百五十斤と称せられ、当時世界三巨漢の一人と云ふので遙々米国に連れて行かれたことさへあつた有名なものであつた。

  

 初代の劉玉清の渡米については、1926年に発表された魯迅の「馬上支日記」や、1926314日付けの『北京日報』の記事にも記録が残っている。また、馬芷庠著・張恨水審定『老北京旅行指南』には、チケット検札員(該書では「檢票長人」とされている)を務めた2人の巨人の絵が掲載されており(図17王煒、虹『老北京公園開放記』にも同一の絵が掲載され、2人の名が劉玉清と魏集賢であることが明らかにされている。

 では、検札員としての名目を与えられていたという歴代の巨人であるが、彼等に対する遊覧客のまなざしはいかなるものであったのか。当時実際に巨人にチケットを手渡した経験を持つという隋少甫氏の回顧録を以下に引用することとしたい。

  

初めて見に行ったのは、だいたい20年代後期だったと思う。入り口でチケットを回収している、あの特大の大人物はまだ健在であった。(A)彼は北京の景色の一つで、北京を観光する者は必ず見なければならないというものだった。私が見た範囲では、歴代の巨人や外国の巨人をひっくるめても、その背丈の高さは彼が1位である。(中略)当時、チケットを回収していたのは2名で、その特大の人物は、いつも西側に立っていた。東側の1人も巨人だったが、惜しいかな対面の彼が大きすぎたせいで見劣りしてしまうのだ。噂によると、西側の彼は、遊覧客がかなり遠くからびっくり仰天するほどだという。(中略) (B)しかし、彼は誠実かつ温和なので、私などはチケットを買ったら、いつも彼の方に向かいたくて、手を掲げてはチケットをその掌に渡し、また偉大な人物にお近づきになれたことに満足するのであった。

  

下線部(A)によれば、歴代の巨人たちは客寄せの宣伝効果を大いに発揮し、その存在自体が北京の観光名所になっていた程だという。また下線部(B)に記された、隋氏の巨人に対する偏愛ぶりは、詹五をはじめとする数々の巨人を冷遇した数十年前の中国人のまなざしとは一線を画すものであることを示唆している。

 おそらく、門前の巨人に与えられた検札という仕事は名目上のものに過ぎず、彼等の存在意義はその並外れた長軀という視覚的異形性に他ならなかった。つまり農場試験場の門前では、巨人の身体的異形性を根拠とした見世物が日々繰り広げられていたのである。

  

 さて、小人の身体そのものに注視する「新たなまなざし」は、1909年の記事「矮女又現北京」に確認された。それと前後するように、これまで見世物となり得なかった巨人が、農場試験場の門前でただそこにいるだけでデモンストレーションを意味するようになる。そして、巨人の身体そのものがまなざしの対象となったその場所は、「物それ自体」に視線が注がれる標本陳列館や動植物園の複合施設、言わば中国のクリスタル・パレスであった。これら一連のパラレルに生じた事象は、いずれも20世紀初頭の新たなまなざしの誕生を背景とした、言わば必然性に支えられていたと考えるべきではないだろうか。

 デュキュアンは、パリ万博に登場した巨人と小人を、中国的観念の発露と解釈した。しかし、小論での考察から導き出される結論は、少なくとも中国人が巨人の身体をまなざし、さらに小人と並置させるようになるには、パリ万博から凡そ半世紀後の20世紀初頭を待たねばならなかったということになるだろう。

  

むすびにかえて

20088月、ギネス世界記録において、鮑喜順(1951-という中国人男性「世界一巨人」認定された中国には数年前より、「世界一の小人」の座を防衛し続ける何平平(1988-2010)がいたため、これで中国は世界一の巨人と小人を同時に抱えることとなった。

 このニュースは中国でも一時話題となったようで、鮑喜順何平平対面けられることとなった。下掲写真(図18まるのはその時、2握手わした瞬間であるここに成立した巨人小人一対関係おそらく現代中国人によってごく自然発想されまた享受されたものとえられる。両者一対となることそれ自体きをせた清末人々との径庭めてべるまでもない。世界一巨人小人対面てた現代中国人観念、実はたかだか100年程歴史性えられたものだったのである

清末の巨人と小人へのまなざし──新聞・画報の見世物記事を主な資料として.pdf


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